日本キリスト教団浜松教会は、このまちのすべての人が主なる神様の救いを受け入れ、希望と喜びをもって心平安に日々を歩めることを祈り願っています。
日本キリスト教団浜松教会は1884年(明治17)に創立したプロテスタント教会で、浜松地域のキリスト教会では、一番歴史のある教会のひとつです*。
浜松教会は、創立のころから1907年(明治40)まではカナダメソジスト教会に、日本キリスト教団が成立する1941年(昭和16)年までは日本メソジスト教会に属しました。「メソジスト」という言葉はあまりなじみのないと思いますが、これはイギリスのジョン・ウェスレー(1703~91)によって始められた18世紀の信仰復興運動**に由来するものです。
1941年(昭和16)の日本キリスト教団の成立にともなって、浜松教会も他の日本メソジスト教会の諸教会と共に日本キリスト教団に加わり、今日に至りました。
浜松地域には、他にも日本キリスト教団の教会があります(遠州教会、遠州栄光教会、浜松元城教会、気賀教会、浜北教会)。浜松教会は、この地域で最初のプロテスタント教会だったため、日本キリスト教団成立のときに、「浜松」の名前をいただくことができたのだそうです。
*『日本キリスト教歴史大辞典』によると、浜松地域で一番最初に伝道を開始したのはカトリック教会で、1878年(明治11)から伝道が始まり、1881年(明治14)には聖堂が建てられています。
**ウェスレーたちはとても信仰に熱心で、自分の生活のすべてが神のために役立つよう、たくさんの規律=メソッドをさだめたので、メソジスト=几帳面な奴ら=堅苦しいぜ、とからかわれてしまったのでした。こんなことを書くと、浜松教会は肩が凝りそうと誤解されそうですがそんなことはありませんのでご心配なく。ウェスレーのウェスレーらしさが発揮されるのはその後のことです。大きな挫折を経験したウェスレーは、あらためて聖書の言葉によって神の愛に触れて心を燃やされ、その喜びを一人でも多くの人々と分かち合おうとして広く伝道をしたのでした。浜松教会は、このウェスレーの信仰の伝統を受け継ぐ、カナダメソジスト教会の日本伝道のなかで誕生した教会です。この辺のことをもっと知りたい方は、太田愛人著「明治キリスト教の源流 静岡バンドの人たち」(中公文庫:現在品切れ 図書館でどうぞ)を読んで見てください。明治時代の静岡県のキリスト教会の様子がよく分かります。ウェスレーの最後の言葉は「最もすばらしいことは、神様が共にいてくださること」(Best of All, God is with us.)でした。
◇キリスト教会
キリスト教会のその他の流れには、カトリック教会のほかに、ロシアや東欧などで影響力のあるギリシャ正教会があります。このギリシャ正教会、カトリック教会、プロテスタント教会の三つの流れは、それぞれ個性がありますが、どれも同じキリスト教会です。プロテスタント教会には、日本キリスト教団のほかにとてもたくさんの教派があります。
◇日本キリスト教団
正式には「日本基督教団」。英語ではUnited Church of Christ in Japan。
浜松教会は日本キリスト教団に属します。
日本キリスト教団は日本で一番大きなプロテスタント教会です(17教区、教会数約1700、信徒数約20万人、牧師約2200人)。
日本キリスト教団は、明治以来伝道を続けてきたプロテスタント教会の、日本キリスト教会(ミッションスクールでいうと東京女子大、明治学院、東北学院など)、日本メソジスト教会(青山学院、関西学院、東洋英和、静岡英和など)、日本組合教会(同志社、新島学園など)などが中心になって、1941年(昭和16)に合同してできた教会(教派)です。
◇プロテスタント教会
キリスト教会の一つの流れです。
16世紀にルターやカルヴァンによる宗教改革によってカトリック教会から分かれました。
プロテスタントという言葉は、ルターを支持する人々が、1529年のドイツで、圧倒的多数だったカトリックの議会勢力に抗議(プロテスト)したことによるものです。ルターからルター派(日本ではルーテル教会など)、カルヴァンから改革派(日本では日本キリスト教会など)と呼ばれる教会が生まれました。宗教音楽などで良く知られているバッハはルター派の音楽家です。
共通した信仰のうえでの強調点は、聖書を神の言葉として大事にすること、そして信仰による義認(神様が人を正しいと認めるのは、人間の努力・良い行いによるのではなく、神の救いを心から喜んで受け入れること)です。
これらの強調点は、当時のカトリック教会の問題点を指摘したものですが、現在ではカトリック・プロテスタント両教会の共通の遺産となっています。
浜松教会では、日本聖書協会が刊行している「聖書 新共同訳」を礼拝で朗読し、そのほかの集会でも学んでいます。日本語の聖書では、同じく日本聖書協会から出版されている、戦後長く読まれた「口語訳」、多くの作家に影響を与えたと言われる「文語訳」があります。
聖書読んでみたいと思われる方には、日本聖書協会の聖書をお勧めします(ギデオン協会で配布している聖書も日本聖書協会の聖書です)。すこし大きな本屋さんには、日本聖書協会の聖書が置いてありますので、手にとってみてください。
聖書は、旧約聖書と新約聖書からなる一冊の書物です(原文は旧約のほとんどはヘブライ語、一部アラム語、新約はギリシャ語)。キリスト教会ではこの聖書を正典(信仰の基準)として大切にしています。
聖書は、古代オリエント世界に生きた人々が、神と出会い、その救いの経験を記したものです。その意味で聖書は、時代的な制約の中にある人の言葉という側面を持っていますが、その人の言葉をとおして神が語りかけてくると信じて、キリスト教会は聖書を読み続けてきました。
聖書は誰でも、どこででも読むことができます。しかし、聖書は、神を信じる信仰の共同体が生み出して受け継いで来た書物ですから、聖書を読むのにもっともふさわしい場所は、やはりキリスト教会だと言えるでしょう。
また、聖書を読んでいるなら、どこでもそこはキリスト教会だと思いたくなりますが、残念ながらそうではない場合あるようです。聖書を神の言葉として受け継いできたキリスト教会の立場からすると、曲解やこじつけとしか言いようのない読み方をする宗教的グループがあります。
聖書に関心がある方は、ぜひ浜松教会の礼拝や集会に参加して聖書を読んでください。
そして、神様と出会っていただきたいと思います。
講壇で使用している聖書
※聖書や賛美歌、その他書籍など購入希望の方は静岡聖文舎(電話054-260-6644)までご相談ください。
浜松教会の礼拝とその他の集会では『讃美歌21』を使用しています。
『讃美歌』『讃美歌第2編』『讃美歌21』は日本キリスト教団出版局が発行している讃美歌集です。
1868年(明1)
明治政府キリシタン宗門禁制の高札を永年掲示とする
1873年(明6)
キリシタン宗門禁制の高札撤廃
カナダメソジスト教会宣教師マクドナルド来日
1887年(明7)
マクドナルド静岡着任
静岡教会創立(現在の日本キリスト教団静岡教会)
1883年(明16)
静岡教会の中山笑(えむ)牧師浜松伝道開始、連尺町に間借りして出張講義
1884年(明7)
同所付近に借家、講義所設置、結城無ニ三伝道師着任
7月25日 静岡教会より分離独立して浜松教会創立、初代教職結城無ニ三伝道師
1889年(明22)
最初の会堂献堂式 伝馬町129番地
1890年(明23)
日曜学校(教会学校)始まる?教会の記録に教会学校について最初の記述
1892年(明25)
会堂類焼のため焼失
1893年(明26)
第2次会堂献堂式
1899年(明32)
婦人会発足
1905年(明38)
会堂大改造(畳敷が腰掛となる)
1907年(明40)
日本メソジスト教会成立、日本メソジスト教会浜松教会となる
1910年(明43)
高町に講義所設置
1915年(大4)
浜松教会共励会発足
1916年(大5)
第3次会堂献堂式
1918年(大7)
高町講義所、浜松教会から分離
1919年(大8)
高町講義所、高町教会となる
1922年(大11)
コーツ宣教師高町教会に来任
1926年(大15)
カナダ婦人ミッションによって松城幼稚園創立
1932年(昭7)
ストーン宣教師高町教会に来任
1934年(昭9)
浜松教会と高町教会合併、日本メソジスト教会浜松中央教会となる
1937年(昭12)
高町に第4次会堂献堂式
1941年(昭16)
日本キリスト教団成立、日本メソジスト教会浜松中央教会から日本キリスト教団浜松教会となる
1945年(昭20)
4月30日 会堂爆撃により大破
6月17日 焼夷弾により会堂焼失
1949年(昭24)
第5次会堂献堂式
1954年(昭29)
壮年会発足
日本キリスト教団信仰告白制定
1964年(昭39)
創立80年を祝う
1976年(昭51)
パイプオルガン(ノエル・マンダ-社)購入、静岡県では最初に設置されたパイプオルガンとなる
1984年(昭59)
創立100年感謝礼拝
第6次会堂献堂式(創立100周年記念事業)
1990年(平2)
庭・空調・音響設備の整備
1991年(平2)
「浜松教会百年史」刊行
1996年(平8)
創立110年を記念して信徒文集「共に恵みにあずかって」
2004年(平16)
創立120年を祝う、大野惠正先生を招いて記念講演会
2005年(平成17)
創立記念日に初代教職結城無二三牧師の曾孫風間重雄先生(中央大学理工学部学部長)を招いて記念講演会
(『浜松教会百年史』『慈しみかぎりなく 高町教会史』を中心に)
浜松教会はこのまちでイエス・キリストとの出会いの場、子どもも大人もすべての人のための憩いの場として開かれ、聖書のみことばを伝える教会として歩んでいます。
浜松教会第5代会堂(1984年まで)
牧師:大住共平
pastor Kyohei Osumi
1986年愛知県生まれ
関西学院大学神学部を卒業後、大阪府、島根県、愛知県の教会で牧師として仕える。
2025年4月より浜松教会の牧師として着任。
「この私でも神様は救い、愛して大切にしてくださる。」このメッセージを喜びと感謝とをもって受け入れました。この喜びとそこから与えられる希望をすべての人を分かち合いたいと願っています。どうぞお気軽に教会にいらしてください。皆様の上に主なる神様の恵みと祝福とがありますように祈っています。
「わたしの目にはあなたは価高く、貴く」イザヤ書43章4節
「どなたでも ごゑんりょなく おいでありて おききなされ」
(『浜松教会百年史』に掲載されている明治17年のチラシから)
『浜松教会百年史』12頁~15頁から、浜松教会創立時の様子を紹介します。
1.浜松におけるメソジスト教派伝道の発端
1881~2(明治14~15)年頃、旧幕臣で維新の際三方原に移された人達の中で、慣れぬ開墾に手を焼いて浜松へ再移住した人が多かったが、その中に大川義房、大野充贇のニ家族がおった。元城町の東照宮の前に住んでいた大野夫人せきは、大川の妹で病弱であったという。
大川の親戚で高野一という沼津でミーチャム宣教師より、受洗し、大変熱心なキリスト教信者がいた。この高野が聖書を売りながら浜松に来て、しばらく大川方に滞在し、教えを説き、大川のみならず大野夫妻も耳を傾けるようになり、その他にも、二、三の求道者が出来た。そこで高野は静岡教会の中山笑牧師に乞うて浜松の伝道が開始されたのである。
その出張講義所は、連尺町の松浦屋という小さな商人宿であった(現連尺町の三秀堂薬局あたり)。その店先を借り、説教のある晩は「基督教説教」と書いた高張提灯を軒に吊るしていた。この出張講義所がいつから始められたか明らかではないが、左のような印刷物があったことからすると、明治17年1月には既に存在したことは間違いないし、静岡におけるメソジストの歴史にくわしい深町正勝牧師によると、1883(明治16)6月末頃であろうと言う。主として出張してきたのが静岡教会在勤の結城無二三福音士*であった。
*カナダ・メソジスト教会日本部会が教職の不足を補うためにとられた有給の信徒伝道者。福音士は数年間実地伝道と試験を経て教職試補となり、やがて牧師となることができた。結城無二三の詳細に付いては、ここをクリックして下さい。
2.最初の受洗者と講義所の設置
大川義房は入信の決心をして1883(明治16)7月15日、盂蘭盆会を期して山中牧師より受洗した。浜松教会(当時は出張講義所)最初の受洗者である。同日大野充贇、その妻せきおよび家族も受洗した。これより先、1880(明治13)4月に元城町在住の原芝忠一の妻テイ(18歳)がマクドナルド宣教師から受洗したとの記録があるが、恐らくは静岡で受洗したものであろう。原芝がいかなる人物であったかはわかっていない。
大川受洗の翌1884(明治17)年3月16日大川の妻かくおよび家族が受洗した。このようにして次第に信徒の数も増してきたので、講義所を設置し伝道師を迎えることとなって、同年6月結城無二三伝道師が来任した。歴史に見る古い頃の教職資格(牧師か、伝道師か等)については明らかではないものが往々であるが、結城は恐らくはこの時から伝道師と呼ばれたのではないかと思われる。
講義所の場所は連尺町十字路の西南角あたり(現文泉堂書店の向い)で、出張講義の行われた松浦屋の近所になる。「遠州浜松ァ廣いよで狭い、横に車が2丁立たぬ」といわれた街、拡幅で今では道路となっている場所であろう。
講義所の規模については不明であるが、後に述べる会計報告書に「家賃」というのがあるから、借家であったことは間違いないし、また、4月の家賃を払っていることから、設置の時期は4月であったと推察される。
3.浜松教会の成立
当時の日本メソジスト教会の組織では、事業年度は毎年7月からよく年6月までだったようで、3ヶ月ごとに毎季会(明治43から四季会と称した)を開いて初版の報告を集め、重要事項の決議をするならわしであった。毎季会の議長には部長があたるものとし、議長から指名された書記が記録をとり、その記録は部長の手許に保管することとなっていた。次に掲げる最初の毎季会記録から浜松教会成立を見ることとしよう。
第1毎季会
1884年(明治17)7月25日(金)午前10時
浜松連尺町講義所において第1毎季会を開く。但浜松教会において毎季会を開くは之を初めとす。
牧師平岩愃保(静岡部長)、伝道師結城無二三、大野充贇、大川義房出席す。
浜松教会は従来静岡支会の処、明治17年年会(当時はカナダのトロント年会に所属する日本部会)において静岡教会より分離、爾来浜松教会と名称すべく決議す。故に今般毎季会を組織す。牧師の指名を以って大川義房を書記、大野充贇を会計とす。
本期4、5、6月信徒献金 金 1円44銭
教会諸経費支払 金 98銭
ミッション補助金 金69円
1)家賃4、5、6月 金10円
2)伝道師給料4、5、6月 金54円
3)備品 金 5円
ここに浜松教会は誕生したのである。
はじめに
幕末の頃新撰組に加わって活躍し、戊辰戦争で敗れて挫折、しばらくして実業家を試みてこれも挫折、ついにはキリスト教の牧師となって生涯を全うした結城無二三についてお話ししようと思います。
私は山梨県山梨市にある日本基督教団日下部教会の信徒です。日下部教会は1879年(明治12)に伝道が始められたのですが、初代の牧師が結城無二三でした。結城無二三牧師によって、日下部教会が開かれたのです。
(1)江戸へ向かう
結城無二三は山梨県山梨市日川村一丁田中で生まれました。1845年(弘化2年)のことです。代々医者をしていた家に長男として生まれたので、周囲も本人も当然、医者になるものと思っていました。
ところが、9才の時にペリーの来航があり、その後の出来事が無二三を刺激し、桜田門の事件を聞くと、自分も天下に名を為したいとの思い止み難く、16才の春、江戸に向かいました。名目は医術の研鑽でしたが、「武者修行への出で立ちのようであった」という記録が残っています。江戸に着いた結城無二三は、幕府御典医の書生となりましたが、江戸に来た目的が青雲の志を果たすためですから、医術の学びは二の次でした。
しばらくして大橋訥庵の思誠塾にも入門して高杉晋作などと共に、攘夷論、剣法、軍学兵法を学びました。浪士の仲間入りをしたことにもなります。さらに無二三は、これからの兵法は洋式が大切だと考え、幕府の講武所に入り、大砲の撃ち方扱い方を身につけました。17才のときでした。
大橋訥庵が攘夷論を主張する著書を発刊したため幕府に捕縛され、無二三など門弟たちの身辺も少しあやしくなりました。その頃 父が危篤となり山梨の生家に帰りました。
(2)新撰組に加わる
無二三は父の葬儀を終えると財産管理を塩山市粟生野に嫁いだ姉に託して、京都に行きました。大橋訥庵の件で江戸が住みにくいという理由もありましたが、「これからは京だ」と言い残しての上京で、着くと間もなく、見廻組の一員になりました。この時の事情を無二三自身の語った記録で読みましょう。
「私が正式に新撰組に入りましたのは慶応3年のことですが、関係は随分古くからあり、ことに近藤とは京都におりました間、始終別懇にしておりました。私は一体京都では見廻組の厄介になったものですが、見廻組の方は旗本の集まり、新撰組の方は浪人の集まりだったので、当時浪人の私は、自然新撰組の方へばかり行っていたのです一一一一」
京都での活躍は大変なものだったのですが、「何人ぐらい人を斬りましたか」という質問には、笑って答えなかったそうです。気魂するどい太刀回りだったことは確かです。「真剣でやると実に強かった」という記録もあります。
慶応4年1月鳥羽・伏見で幕府軍と薩長軍が衝突、いわゆる戊辰戦争が起き、幕府側が敗れます。新撰組も無二三も敗走することになります。大阪での反攻を断念した幕府家は富士山丸と順動丸で江戸に戻りました。「くやしくてたまらなかった」という無二三の述懐も残されています。
(3)甲陽鎮撫隊
薩長を中心とする西軍は、一気に江戸を目指して進んで来ました。幕府の対応が、恭順派と抗戦派でゆれている中で、新撰組などの強い主張で、甲陽鎮撫隊が組織されました。
東海道と中仙道の2手に分かれて東進する西軍に対し、幕府直轄の甲府城を固めて、中仙道を攻めてくる西軍を迎え撃つという目的でした。
甲府と甲府城と甲府盆地の地形などは、無二三のいわばホームグラウンドです。裏道も、森の茂り方も知っていました。
近藤勇が隊長、土方歳三が副隊長、結城無二三が地理先道兼大砲指南役となった甲陽鎮撫隊は、大砲二門を含む一行200名で、慶応4年3月1日に江戸を出発しました。大名格10万石を与えられた近藤勇は、かごに乗っての出発です。
西軍の中仙道入りのニュースは入っていますから、甲陽鎮撫隊も先を急ぐ必要があったのですが、道順にあたる日野周辺では、近藤勇の出世が評判を呼び、大歓迎が続いたので、進軍のペースは落ちました。
現在の地図に直すと、3月1日に丸の内を出発して新宿に泊まり、2日には日野に、3日には相模湖に泊まったことになります。
この夜、早馬の知らせで、板垣退助率いる西軍は下諏訪まで来たことを知らされました。下諏訪・甲府間は13里、与瀬から甲府までは17里、その上、間に笹子峠があるので、甲府への到着ではかなわないことが分りました。
それでも、無二三は甲府までの道や甲府の街並みをしっていたので、工夫しだいでは、甲府城に入れると考え、雪の中、夜を徹する行軍をし、笹子峠を越え駒飼に着きました。3月4日の朝になっていました。
その時、西軍は甲府城に入ったことを知らされました。1400名の西軍とでは、城攻めでも野戦でも対抗できません。無二三が中心となり、勝沼の山に大砲を据え、甲府盆地の東出口で百軍を措止する、という作戦がきまり、布陣しました。3月5日夕方のことです。その日の夜、無二三は生家の一丁田中に行って兵を募り、協力を呼びかけました。さらに塩山市の粟生野の松泉寺で、近郷の名主一同に集まってもらい、そこで甲陽鎮撫隊の趣旨を説明して幕府への協力を依頼しました。みなは誓約書を書いて協力を約束してくれました。鉄砲を持っている猟師なども加わってくれることになりました。その時、すでに3月6日になっていました。無二三は夜明けを待って粟生野を出て勝沼に向かいました。
ところが大変でした。実は西軍は6日の朝から勝沼に攻撃をしかけ、大砲を据えた柏尾の山の激闘も2時間で敗れてしまいました。近藤も土方も8日には八王子で会っていますので、いそいで逃げたことになります。
結城無二三は行く所も、居る所もなくなりました。甲陽鎮撫隊といっても、実体は新撰組で、西軍に破れて散ってしまったからです。やがて、近藤勇も処刑されてからは、完全に追われる身となりました。青雲の志23才の挫折となりました。
(4)実業家を目指す
しばらく身をひそめていましたが、翌明治2年5月五稜郭の戦いで、一連の抗争が終わりを告げると、旧幕府軍に属した者も、申し出て放免となり、その多くが沼津近辺に住みました。
無二三もそういう一人として、旧知の友もいる沼津に居住しました。そして、新しく設立された沼津兵学校の付属小学校に入り、西洋式のすべての学びを初歩から学ぶことにしました。
その頃、友人のもめごとを解決するために数回、江戸に行っていますが、この時、勝海舟と親しくなりました。兵学校の教師の中に山岡鉄舟がおり、勝と山岡は、無二三を見込んで、「伊豆の大島を全部やるから、大牧場をつくり、乳牛飼育をする」ように奨めました。当時としては、畜産業は西欧に追いつくための重要な施策でした。無二三はこれを引き受け、伊東港からの舟に牛まで積みこみました。
その時、山梨に「大小切騒動」と呼ばれる大きな事件が起きました。明治新政府の税制に対する不満が高じたもので、甲府盆地東部では農民一揆的になりました。伝え聞いた無二三は、これは自分の出番と考え、大島計画をすべてキャンセルして、山梨に戻って来たのですが、騒動は治まっていたのです。再び大きな挫折を味わうことになってしまいました。沼津には戻らずに、祖母の家のある御代咲村で農業を始めました。2年後には甲府博覧会を実現して、実業家としても力を出しました。さらに乳牛事業を始めたところ、県の役人と衝突。再び農業のみの生活になりました。妻前田まつと結婚して、1年は経っていませんでした。人びとの目には隠遁生活に見えました。
(5)宣教師CSイビー
再び人びとの間に結城無二三が登場したのは、それから4年後1879年(明治12)でした。キリスト教を伝える人、聖書を掲げて、ここに書いてある神を信じるようにと、伝道する人になっていました。
正式に牧師になるのは少しあとになりますが、最初から、牧師のような勢いで伝道に励みました。30才までの無二三を知っている人は、34才の無二三を見て、「気でも違ったずらか」と話し合ったそうです。
結城無二三がキリスト教信者となるために決定的な役割を果たしたのはCSイビー宣教師でした。
イビー宣教師は、カナダメソヂスト教会から、日本伝道のために派遣され、1877年(明治10)には、山梨県南部町の近藤喜則に招かれ、私塾「蒙軒塾」で歴史と英語と聖書を講じました。
これに刺激された新海栄太郎や根津嘉-郎たちは、甲府で英語塾を開き、イビーを講師として迎えました。
イビーは甲府に来ると英語塾で教えました。同時に伝道所を開設して布教活動を盛んに行いました。甲府市百石町で開かれた毎日曜の礼拝には、100人以上の人が集まりました。これが、今日の日本基督教団甲府教会の始まりです。
山梨県下一円を、馬に乗ってキリスト教を拡めて行きました。6尺豊かな異人の爆発的伝道が行われました。
イビーが山梨県南部町に来た1877年は、西南戦争で西郷隆盛が自決した年にあたるのですから、そういう時に、カナダより来日して、山梨県での4年間の伝道生活を送っていたのは、大変な事、信仰の勇気によるものでした。
(6)結城無二三の受洗
結城無二三は、その頃は先にのべたように隠遁生活をしていました。妻と作男と牛をつれて、山寺に住み、農業をしていました。荘子などの漢籍とともに、中国訳の聖書も持って行きました。長男も生まれ、開墾もすすんで、文字通りの晴耕雨読でした。
18 7 8年(明治11)山にこもって3年日の年末のことです。雪で道が閉ざされる前に、作男が食料などを求めに里に下りました。ところがその日、妻が高熱を出して倒れました。医者の子である無二三は煎じ薬などで手当をしたのですが、一向に良くなりません。
その内に、自分も高熱で苦しくなり身動きがむずかしくなりました。長男は泣き続けるという、どうにもならない状況になってしまいました。
その時、無二三の頭に聖書の言葉が浮かびました。聖書の中の詩編に、聖書の神は全知全能であると書いてある言葉です。そして心からお祈りをすれば、願いを聞いて下さる、助けて下さる、という言葉でした。
無二三は、祈り方など知りませんでしたが、なにもかまわず、一心に、おすがりするつもりで祈ったのです。
すると、熱が下がったのです。赤子も泣き止みました。妻も正気になりました。2・3日はかかる筈の作男も帰って来ました。思いがけないことが連続しておきました。無二三は、聖書を仏壇に供えて合掌し、聖書の神にお礼を申し上げました。
全快後、すぐにイビーを尋ねました。聖書と聖書の神のことを、正しく、深く知りたいと思ったからです。イビーは、無二三からの話を全部聞くと言いました。
「あなたが私の所へ来たのは奇蹟です。日本に神さまのことを知らせるために、結城無二三を用意されていたのです。あなたが死生の間をくぐったのも、山の中に入ったのも、病気になったのも、みんな神さまの計画です。ですから、あなたは、これからの人生を神さまに捧げなさい。今日からですよ。明日からではありません。私と一緒です。」
宣教師イビーの日本語はたどたどしいものでした。結城無二三の英語も、ほんの初歩でした。でも、イビーの説くことは、たちどころに理解されました。
無二三は山を捨て、甲府に住みました。イビーに初めて会った3ヶ月後、1879年4月6日、甲府教会で、親子三人がイビーより洗礼をうけました。家族をあげて洗礼を受けたのは、甲府教会でも始めてでした。
(7)結城無二三の伝道
34才の結城無二三は、その日から、イビーを助けて伝道を始めました。それも、自分の生家である山梨市日川村を始め、郷里と呼ばれる東山梨の全域を目指しました。
日下部教会には教会史「笛吹にそそがれた恩寵」誌がありますが、それには、「日下部会域での福音の第一声は、結城無二三牧師によって発せられたのである。もちろん宣教師イビーはこれ以前に馬に乗って勝沼を何回も尋ねて伝道している。途中の日川村やー宮村や甲運村で福音をのべ伝えたのに相違ないし、その記録も断片的には残されている。しかし結城牧師の回心とその前後の状況をつなぎ合わせると、第一声は、結城牧師の次のような宣教の証として発せられたのであった。『聖書の神は全知全能である。この神を信じて、ひたすらに祈りさえすれば救われる。われらの願いは聞き入れられるのである。そうすれば、日本も生まれ変わることが出来る。希望を持つことがゆるされる。聖書の神を信じる者は、バプテスマを受けて、神の子として生まれ変わらなければならない』刀もちょんまげもなかったが、気迫は新撰組にいた時と同じだった」とあります。
それから2年間イビーと共に、山梨県下一円を廻り伝道に励みました。イビー―家と無二三の家族は親しい交わりを持ちました。
結城マツ夫人は、イビー夫人から、欧米の生活を吸収しました。特にパンは当時としてはめずらしい物でしたが、マツ夫人は、パンを焼くことも上手になりました。
後年、無二三が日下部教会の牧師となった折り、集会が終わると、このパンが出され、数人の信徒たちが、ご馳走にあずかっています。無二三牧師の長男礼―郎は、当時の信徒であった飯島さんや中沢さんが、「今日のパンは出来がよい」とか、「少し焼き過ぎだった」とか言いながら談笑したのを覚えていました。
(8)神学校に学ぶ
イビー宣教師が甲府を引き上げると、無二三は、正式な牧師になるために、東京麻布の東洋英和学校神学部に入学いたしました。学校に行きながら、牛込教会の伝道にあたりました。
家族は甲府に残したまま36才の新入生になったのです。聖書学神学の外 論理学、倫理学心理学と必死の勉学を続けました。最晩年、60才を過ぎて白髪の老人になった日々、上野の図書館に通いつめて、心理学書を読み、係りを驚かせたという話は、無二三の勉学振りを示しているようです。
(9)静岡・浜松での伝道
東洋英和学校神学部を終えた無二三は、静岡教会に派遣されました。山中笑牧師が居ました。当時のキリスト教は、耶蘇と呼ばれたりキリシタンバテレンとかやゆされていました。面と向かってアーメンソーメンと悪口を言われたりしたので、伝道は大変でした。
当時の静岡には、将軍だった徳川慶喜も健在で、旧幕府関係の人も多かったので、無二三の働きは効果を示しました。県令(知事)の所にも平気で伝道に行きました。
また、かつて幕府の講武所では大砲術を教えられ、沼津の小学校でも教えを受けた江原素六が、洗礼を受け、政治、教育で大きな力を示し、加えて教会設立にも加わったので、無二三にとっても追い風となり、静岡教会の基礎をしっかり固めるのに大いに役立ちました。
静岡教会で2年伝道にたずさわった無二三は浜松伝道に向かいました。信徒が1人しかいない所での伝道ですから、静岡市での伝道とは違って大変でした。その頃は全国的にも、ヤソ反対運動がー層強くなり、暴力団まがいの反対がしばしば起きました。
伝馬町の借家を開放して日曜日の集まりを始めましたが、無二三の説教になると、石が投げられました。少数の人は集会に来ているのですが、あぶないので奥の部屋に入って、戸を立てて讃美歌を歌いました。
石は無二三にあたります。顔にもあたります。それでも無二三はひるみません。これを見ていた見物の人の中から同情が出始めました。町内の有志が「伝馬町を荒らされてはたまらない」と説教の度ごとに提灯をつけてくれました。
そういう中で、相次いで信者が生まれ日本基督教団浜松教会が生まれました。無二三は東海道のムーディーと呼ばれ、各地から見学者があったと記録されています。米の世界的伝道者で、日本にも大きな影響を与えたムーディ一になぞらえられているのは、キリスト教関係者から見ると、目を見張るような光栄です。
浜松に近い見附、袋井、掛川の教会も、無二三によって開拓されたものです。
(10)日下部教会・牧師
家族を上げて、経済的な困難をものともせず、闘いのように伝道し続けた東海道のムーディーは、浜松での闘いを仕上げて、再び山梨の地に戻って来ました。40才になっていました。6年前、イビーと共に、「神を信ぜよ」と絶叫した新撰組隊士は、牧師として郷里に戻って来たのです。
無二三は塩山市千野に教会のもととなる講議所を開きました。当時、すでに勝沼にもメソジスト教会が生まれていました。その後、講議所を山梨市の八幡北に移しました。大村清三郎の家の半分が講議所になりました。
すでに数名の信徒が居り、新撰組時代や、甲府博覧会時代を知っている人もあったので結城無二三牧師には、応分の敬意を持つ人もいて、浜松伝道とは全く異なる教会形成となりました。伝道活動が進められたと言えます。
それでも、結城無二三以外の人によるキリスト教講演会などの場合には、ヤソ教攻撃に会うことが度たびありました。
山梨市岩手村で開かれた講演会の時に、あまりのヤジのひどさに、無二三とー緒に聞きに行っていた高部若太郎という青年が、反対に立ち上がると、「あいつをやっちまえー」と聴衆が総立ちになって高部にせまりました。その時、白髪の無二三牧師が、「来るなら来い」と身構え、すぐに収まったこともありました。この出来事は、私が高部氏から直接、伺いました。
結城無二三牧師は、イビーから洗礼を受けた後の2年間、信徒のまま日下部教会周辺域で伝道し、牧師になって約10年、伝道したことになります。
その間に育て上げた信徒の中に、飯島信明、中沢徳兵衛がいました。2人はやがて政治家として立ちますが、同時に、キリスト教精神を基盤とする東山梨禁酒会を立ち上げ、会長副会長となりました。
当時の禁酒会は、人びとが良い市民になることを目指していました。酒による家庭の崩壊や、人間同士の反目、犯罪を減らそうという運動で、東山梨の全村に支部がつくられました。表に立って活躍したのは飯島、中沢たちですが、その背景、バックボーンは無二三牧師の信仰だったことになります。禁酒会が地域に与えた良い影響は、現在まで続いていると考えられます。
48才になった無二三牧師は、尊敬して止まないイビーが再来日し、東京で本郷中央会堂を建て、協力して欲しいと依頼されたので、山梨での牧師生活を中断して上京しました。
この事業は2年で終わってしまったので、1895年(明28)山梨にもどって石和講議所の牧師となり、1898年には再び日下部講議所牧師となりました。1901年(明治34) 56才で牧師を引退し、東京で生活し、1912年(明45) 67才で亡くなりました。妻と子供たちに「おれは平和だ何も思い残すことはない」と言い残しました。
おわりに
新撰組に加わった疾風怒濤の青春、動乱の中に生きた前半生と、敬虔なキリスト教徒として、牧師として、人びとや社会に捧げた後半生は、宣教師イビーが言ったように、神の計画だったと私は信じています。
無二三という名前は20才のとき自分でつけた名前です。俺ほどの者は2人とはいない筈だという志を名前にしたのです。
その志の中核は、不正を許さない心、正義の心だったと思います。それを新撰組で行なおうとして挫折したのですが、牧師となって神の正義を伝え続けることで全うしたと言えると思います。
無二三の死の知らせをカナダで聞いた宣教師イビーは日本語で「ああサムライ結城無二三」と絶句しました。
その精神は、今も生き続けていると信じます。さらに生き続けさせたいと願います。
日本の国にいま精神の乱れがあり、もっとも失われているものが正義の心であることを思うとき、あらためて、結城無二三の生涯に思いをいたすものです。
参考資料
NHKラジオ第2「宗教の時間」
2004年10月31日、11月7日、2005年3月27日、4月3日放送分
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